氷上山興隆寺・北辰妙見社の由来

興隆寺の由来

 興隆寺は天台宗で、山号は氷上山。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、推古天皇21年(613年)に琳聖太子が創建し、氏寺にしたと伝えられる。天長4年(827年)頃大内茂村が、現下松市の鷲頭山から氷上山興隆寺に妙見社を勘請して氏神とし、大内氏の総氏寺に定めたという。

 この妙見社は、祭神を北辰妙見大菩薩と称し、興隆寺とともに、歴代当主の信仰が厚く崇拝され、妙見社大祭の二月会に際しても、当時の行事や条令等が興隆寺文書に記載されている。大内氏の全盛時代には大いに栄え、氷上山すべてが境内であった。法界門を入って十町ばかりの間、両側には堂塔百余坊が並んでいたと縁起に記され、また伽藍配置図からみても一大霊場であったことがわかる。

 文明18年(1486年)には、後土御門天皇の勅願寺になり、その時賜わった勅額「氷上山」は法界門に掲げられていた。「氷上山由緒書」に山号「氷上山」は、山中に湧く霊水に北辰降臨の瑞光が映えて氷の如く見えるところから称し、寺号「興隆寺」は、仏教興隆の義にちなむとされている。大内氏の滅亡後、毛利氏となっても引き続き霊場氷上山を崇敬されたが、大内氏時代の壮観さはなく、僧坊の多くは衰微した。

 江戸時代に中興第一世・行海僧正は復興させようと念願をおこし、氷上山「真光院」と称し、脇坊として宝乗坊(大日如来)・安楽坊(薬師如来)・常楽坊(阿弥陀如来)・安禅坊(阿弥陀如来)・宝積坊(阿弥陀如来)・妙泉坊(十一面観音)があったと風土注進案にある。また、この他に東照宮・観音堂・山王社・護摩堂などもあった。

 明治になり、神仏分離で寺領を失い、真光院も焼失して宝乗坊を本坊としていたが、他の坊は廃退し、釈迦堂は龍福寺本堂、東照宮は築山神社、観音堂は山根観音堂、山王社は御堀神社として移築され、その他の諸堂・神祠なども取り払われ、又は朽腐した。このため現在は、中興堂を興隆寺仏殿として本尊を安置するとともに、その左隣に妙見社、鐘楼が並んで建てられている。

 中興堂とは、江戸時代に興隆寺を再興した行海和尚が元禄7年没し、その中興をたたえ、元禄8年(1695年)に辧海和尚が建立したものである。

妙見社

 妙見社は、興隆寺の鎮守として、古くから興隆寺の境内に祀られていた。大内氏の始祖琳聖太子が日本に来訪される二年前、周防都濃郡の青柳浦(現在の下松市)の大松樹に大星が降り、七昼夜にわたって輝いたので、里人は占ってもらったところ、異邦の太子が来朝するので、その星を妙見尊星王大菩薩として祀り、社を鷲頭山に建て浦の地を下松と改めたといわれている。大内茂村がこれを氷上山に勧請したが、その社殿は、上宮と下宮があり、大きな建物であったと伝えられる。

 この氷上山妙見社は、興隆寺が大内氏の氏寺でもあったため、妙見社は後には国中の総妙見の如く栄えたといわれる。 上宮には、社殿のほかに不動水と御籠所があり、下宮には、本殿・幣殿・櫻門・庁屋などの建物があった。

 明治になり、興隆寺境内の整理のため、下宮の妙見社社殿を中心として、現在の地へ移し、祀ることとなったが、妙見社は、家運隆盛、事業発展の神様として今も多くの人の尊崇を集めている。

指定文化財

『梵鐘』(国指定重要文化財)

 総高189センチ、口径が111.8センチの大きな銅鐘。朝鮮鐘の形式を取り入れており、各所ににぎやかな装飾がみられる。四区の乳郭の間には四天王の像が鋳出されており、中帯の上下には雲龍文、駒の爪は蓮弁で飾ってある。池の間の銘文により、大内義隆が享禄5年(1532)に興隆寺に寄進したもので、筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の製作である。

『氷上山扁額(へんがく)』(山口県有形文化財)

 縦108センチ、横63センチの木造扁額で、表に行書体で「氷上山」と彫り込まれている。文字は後土御門天皇の宸筆であるが、これは大内政弘の奏上によって賜ったもので、当寺の法界門に懸けられていた。

『琳聖太子の剣・宝剣拵・付属文書』(山口県有形文化財)

 剣は、62,8センチで、琳聖太子が使ったとの伝承がある。銀が使われており、形からして平安時代のものと思われる。拵えの鞘には、大内菱の紋、付属文書から天文6年(1536)に製作されたものであることが分かる。

『木造釈迦如来坐像』(山口市指定有形文化財)

 像高は、112センチメートルの坐像で、檜材の寄木造り玉眼、七重蓮華座の上に坐し、二重円光の光背を付けている。胎内の墨書銘によって、永正元年(1504)に大内義興が大檀那となって造立したものと判明、仏師名も胎内墨書に、作者伊豆法眼院慶、大仏師越後法眼宗賢とある。

『絹本着色両界曼陀羅図』(山口市指定有形文化財)

 縦151センチ、横63センチの絹本に、上方に金剛界曼陀羅を、下方に胎蔵界曼陀羅を配した種子曼陀羅である。金泥で、その他の諸尊の種子は墨で書かれており、界線などには截金が用いられている。室町時代に製作されたものである。

『木造龍頭・舞楽面・獅子頭』(山口市指定有形文化財)

 龍頭3件、舞楽面2件(腫面、咲面)、獅子頭1件で、いずれも15世紀頃のものと思われる。

『山口十境の詩』を詠んだ趙秩

 建徳元年(1370年)、中国・明の使節として来日した趙秩は、大内弘世に招かれ山口に滞在し、文中元年(1372年)から一年余りの間に「山口十境」の漢詩を詠み、また、絵も描き、文化交流に大きな役割を果たした。「山口十境」は、氷上滌暑(大内氷上)、南明秋興(大内御堀)、象峯積雪(大内川向)、鰐石生雲(鰐石)、猿林暁月(古熊)、清水晩鐘(宮野下恋路)、泊瀬晴嵐(宮野江良)、虹橋跨水(天花)、梅峯飛瀑(法泉寺)、温泉春色(湯田)の十景です。

年中行事

除夜・初詣、どんど焼き、節分会、花祭り、地蔵盆、おついたちまいり

大内氏

大内氏の祖は、朝鮮百済国聖明の第三王子・琳聖太子で、推古天皇19年(611年)に周防国佐波郡多々良の浜(今の防府市)に着岸し、聖徳太子より大内県を賜り、多々良を氏としたといわれる。 平安時代に入り、16代盛房の頃より大内を氏とする。代々周防権介として重きをなす。 17代弘盛・18代満盛は源氏方に属し、平家追討に軍攻をあげ、10代弘成・20代弘貞は元寇に参加したりして、大内氏はいよいよその勢力を増大させていく。 24代弘世(1352年〜1380年)は、周防・長門の二国の守護となる。大内氏中興の祖といわれ、政庁を山口に移し、西の京として町づくりを始める。 31代義隆(1528年〜1551年)の時代、栄華はその極に達す。しかし、戦国下剋上の世、天文20年(1551年)武断派の重臣・陶晴賢の謀反により滅亡した。

興隆寺・妙見社
〒753-0214 山口県山口市大内氷上5丁目
 083-927-0597
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